ナイチンゲールとヘレン・ケラー、人と人の不思議なつながり | 静岡福祉大学

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ナイチンゲールとヘレン・ケラー、人と人の不思議なつながり

教員ブログ

 講義の準備をしていると、意外な人が意外な人とつながっていたりして、暗かった頭脳に
ライトが灯ることがある。
 福祉史の講義では年に一時間ぐらい、ナイチンゲールについて語る。ナイチンゲールがそ
の名を知らしめたクリミア戦争がいつごろの戦争だったのか、それがペリー来日の1853年
であることを即座に気づく学生はあまりいない(私はこの年を、学生には「いや~ござった
ペリーさん」と覚えてもらっている)。クリミア戦争に『戦争と平和』の著者トルストイが
従軍していたこと、ノーベル賞のノーベルや、トロイ遺跡を発掘したシュリーマンが武器輸
出で儲けていたことなどなど、学生は驚きの目で聞く(トルストイ、ノーベル、シュリーマ
ンを知らない学生もいるにはいるが)。雑学めいた知識だが、今まで学んでいたことの断片
が、クリミア戦争という一つの事態に集約されるのだ。
 かつそのころ日本では尊皇攘夷とか開国佐幕とかでもめていた時期であった。つまりは、
ナイチンゲール、ペリー、トルストイ、ノーベル、シュリーマンと同じ時代に高杉晋作、坂
本龍馬、近藤勇、沖田総司らが生きていたのである。
 ナイチンゲールの影響を受けてアンリデュナンが設立したのが赤十字社であった。1859
年にアンリデュナンはナポレオン3世に会うためにイタリアのソルフェリーノに出向いてそ
こで戦争の悲惨さを目の当たりにし、敵味方の区別なく看護する国際組織を作ろうとしたわ
けであった。日本が勤皇だ佐幕だ、攘夷だ開国だ、と同胞同士で殺戮をくりかえしていたこ
ろであった。
 赤十字の思想は、日本では維新後の1877年の西南戦争(学生は「嫌な名残す西郷さん」
で覚えている)ではじめて導入された。ナイチンゲールから西郷隆盛への連鎖はミスマッチ
に似た面白さがある。
 ナイチンゲールのほかに、ヘレン・ケラーについても一時間費やす。「奇跡の人」と言わ
れるが、実は「奇跡の人」はヘレンを支えたアン・サリバンで、彼女の献身なくしてヘレン
はなかった。アンもまた目が不自由であり、かつ極貧生活から自力ではいあがってきたがん
ばり屋であった。アンは裕福なお嬢様のヘレンの家庭教師として生きていくわけだが、誠心
誠意ヘレンに尽くしたその姿はやはり美しい。アンがヘレンの家庭教師になるには、電話機
の発明者で知られるベルの推薦があった。ヘレンの両親が相談した先がベルであったのだ。
さらに面白いことに、アンが学んでいたパーキンス盲学校にはローラブリッジマンという多
重障害の女性がいて、アンは彼女と指文字で会話をしていた。このことがヘレンへの紹介の
大きな要素になった。そのパーキンス盲学校はハウ博士が創設したものだが、驚いたことに、
ナイチンゲールが看護婦を志したころ周囲に反対されて悩んでおり(当時の看護婦の地位は
低く、ナイチンゲールのような大地主のお嬢様がやる仕事ではなかった)、それを励まして
くれたのがハウ博士だった。時代はかなり隔たるが、ハウ博士は、ナイチンゲールとヘレン
・ケラーを結ぶ一つの点であった。なお、アンを「奇跡の人」と呼んだのは『トムソーヤの
冒険』で知られるマークトウェーンである。
 喜劇俳優兼監督のチャールズ・チャップリンは盲目の少女を主人公にした『街の灯』とい
う有名な映画を製作している。これはヘレンをイメージしたのだろうと思っていたら、ヘレ
ンとチャップリンは若い頃、一緒に『救い』という映画に出たことがあった。その映画は失
敗策であったそうだが、その挫折の経験が『街の灯』製作の背景にあったのではないかと思
うと、また楽しい。
 ヘレンが渋谷のハチ公の鼻にふれている写真がある。大学時代に網膜剥離になり、目の不
自由な人のために生きた岩橋武夫がヘレンを日本に紹介し、日本に呼んだのだ。受講生にそ
の写真を見せたら、「(ヘレンは)生きているのが楽しそう」と笑った。私もうれしくなっ
た。
(健康福祉学科 小田部雄次)

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