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死の棘とコロナ禍~教員ブログ~

教員ブログ

2020年5月、コロナ禍の厳しいニュースばかりが聞こえてくる状況のもと、NHKの番組でイタリアの哲学者G.アガンベンによる「死者の権利」という論文があることを知りました。その晩、幸いにしてそれを読むことができましたが、そのインパクトの大きさゆえに朝まで眠ることができませんでした。

 

 同年3月のあの著名なコメディアンの死は、コロナ禍が私たちの身近にあることを如実に教えてくれました。そんな記憶が覚めやらぬ頃、アガンベンは、誰からも看取られることなく、誰からも抱かれることなく、ただ白き骨となって帰りくる〈死〉の理不尽さを記しています。死にゆく者の「権利」がコロナ禍という理由だけで無視されてよいのかというのです。「行動制限」による自由の剥奪の罪深さにも言及しています。

 

 昨春から多くの大学では「オンライン授業」が主流となり、今またさらなる厳しい状況が拡がっています。俗に〈孤独〉は耐えられるが〈孤立〉には耐えられないと言います。後者は人と人との絆の断絶(ひとりぼっち)なのです。キャンパスを奪われた学生たちの〈孤立〉の辛さは、察するに余りあることです。大学もまたアガンベンの問いかけと無縁ではありません。

 

  「死の棘は、先に逝きし者よりも、後に残りし者にこそ深く突き刺さる」という文言を知ったのは、1985年8月の日本航空123便墜落事故の記録からでした。500余人の〈死〉には、その瞬間まで無数の日常性があり、数知れぬ物語がありました。帰り来ぬ人を待つ家族や友人にとっては、時は止まったままであり、先のない日々では物語を一緒に紡いでくれる愛する他者すらいないのです。若き妻が夫の遺品である背広に袖を通して、一ヶ月余にわたってこれを着て過ごしたというエピソードがありました。愛する夫の亡骸を抱きしめることすらかなわなかった妻のやり場のない哀しみを伝えています。

 

 〈いのち〉ある者にとって〈死〉はどんな場合でも残酷です。どんなときでも理不尽です。ましてや意図せざる〈いのち〉の剥奪は、とても受け入れがたいものでしょう。コロナ禍が突きつけた〈リアル〉は、感染者や死者を示す数字にではなく、個々人の日常風景のなかにこそあるのです。〈いのち〉は〈いのち〉につながっているがゆえに、「哀しみを手放さないこと、これが愛を続ける唯一の方法だ」(S.フロイド)と言えるのかもしれません。

健康福祉学科 増田 樹郎