神頼み? | 静岡福祉大学

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神頼み?

教員ブログ

 日中は残暑を引きずりつつも夜には秋の風を感じられる昨今、夏季実習も終盤戦となり後期の授業開始まであと僅かとなりました。

 国家試験等受験生の中には、ささやかな後押しを願いに神社仏閣に詣でる方々もいるかもしれません。

 

 かくいう私も、昨日、湯島聖堂に行ってきました。

 江戸で学業成就といえば、湯島天神が有名ですが、その湯島天神から2駅、徒歩20分程度の御茶ノ水駅北側に湯島聖堂があるのをご存知でしょうか?

 元々は江戸の儒学者林羅山の孔子廟兼学問所を将軍綱吉公が聖堂として現在の場所に移したもので、その後、幕府の昌平坂学問所となったところです。

 

 余談ですが、「昌平」とは孔子の生まれた村の名前からとったそうで、もし彼が「三平」や「波平」や「鬼平」で生まれたら、漫画のキャラクターの様な学問所になっていたかもしれません。

 その湯島聖堂ですが、門を潜ってそのまま正面の聖堂に向かうことが多いと思います。

 しかしこの夏、門を入って左手の陰に何やら人だかりが出来ていました。ひょっこり覗くと、そこには何やら吊るされた金色の壺が、、、。

 

 この壺?は「宥座の器(ゆうざのき)」といって、空のときは傾き、中ほどまで水をいれると水平になり、さらに水を入れていくとひっくり返ってしまう代物でした。

 この器で、孔子は「中庸」の大切さを伝えたそうです。

 

 よく、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といいますが、これの元ネタ?は、「過猶不及(かふきゅう)」といって、弟子の子貢が「(才気溢れ弁舌爽やかな)子張と(控え目でおっとりの)子夏とでどちらが優れていますか?」と尋ねたところ、孔子は「子張はやり過ぎで、子夏は物足りない」と答えたそうです。(本人も人一倍才気に溢れ弁論に長けた)

 子貢は、「ならば、子張の方が優れているのですね?」と問い、そのとき孔子が答えたのが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だそうです。

 この言葉、単にほどほどが良いという意味だけではないような気がします。

 

 子貢と孔子の関係を鑑みると、大切なのは、相手を論破し弁論で自説の正しさを認めさせることや、自信溢れる弁舌で相手を魅了することの危うさを指摘した故事の様に感じます。

 

 実際、子張や子貢の様な自己主張の強いイケイケの人ばかりだったら、世間は生きづらくてしょうがありません。

 そういえば、内田樹さんは「邪悪なものの沈め方」(しずふく図書館にあります)で「真理」に対する「常識」の大切さや「正しい主張」を自制することの大切さについて述べていました。

 

 人にものを伝えることを生業にしている身として、「宥座の器」がひっくり返らないように気をつけたいと思う今年の中秋でした。
 

 福祉心理学科 飛田義幸

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